地域活動再開の“ワケと決意”
1.日本の政治に何が起こっているか
 評論家の内橋克人さんが、小泉内閣の異常な支持率について「熱狂的等質化現象」だと表現しています。これは、市民社会が未成熟な日本社会に特有のもので、事が起こると自分の信条や情感までも他人と等質化させることに懸命になっていると、内橋さんは言うのです。(内橋克人編『誰のための改革か』岩波書店刊)
 小泉内閣の誕生に当たって、人々は、その旗印の「構造改革」に期待を寄せました。学生時代の私は、旧来の左翼思想から抜け出て、いわゆる「構造改革派」に属していました。使われ方は違っても「構造改革」という言葉は、行き詰まった状況を打開するために極めて魅力的な言葉として人々の前に現れます。
 小泉内閣の「構造改革」の中味が何であるのか? 国民の多くは深く考えないままに、「構造改革が進めば世の中がよくなる」と思いこんでいるのではないでしょうか。
 確かに、公共事業をめぐる政官財の利権構造や、これに伴う権力の腐敗、国民に背を向けた官僚制などは、根本的に変革すべきでしょう。しかし、「改革」の名の下に推し進められるリストラや、規制緩和がもたらす弱肉強食の経済活動は、社会的に弱い立場にある人々を追い込み、その生活を脅かしてはいないでしょうか。
 その一方で、有事法制、住基ネットによる国民総背番号制など、私たちに新たな義務を課すシステムが、いつの間にか強引に実現への道を歩んでいます。戦後の日本社会で、国民に人権や平和を保障してきた「日本国憲法」は、事実上その精神や規定を歪められ、そのことを根拠とする改憲論が準備され始めました。
 他方、学生時代からの友人・江田五月さんや、市民運動を始めたころに知り合った菅直人さんが所属する民主党も、野党第一党としての期待を集めながら、内部対立や路線の不明確さから政権交代の受け皿となる力強さを見せることができないでいます。 
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2.私が生きてきた社会
 1941年、私が生まれた年に始まった太平洋戦争は、父母たちの苦労を意識することもないままに終戦を迎え、戦後の“復興”社会の中で、私は少年期を送りました。
 大学に入学した1960年は、日米安保条約の改定をめぐる大きな国民運動が起こった年です。大人への入り口でこの運動に身を置いた私は、日本に民主主義を根付かせるための活動を生涯のものとすることを意識しました。そして、4年間在学した立命館大学の末川博総長から卒業時にいただいた「未来を信じ、未来に生きる。いつも心に太陽を持って、清く正しく美しく」の額皿をいまも書斎に飾り、座右の銘としています。
 結婚して新しい家庭を築き始めた「新金岡団地」は、高度経済成長を支えた勤労者の住まいとして設けられた新興住宅。およそ1キロ四方に3万5千人が暮らす異常な人口密度のまちでした。1学年に27クラスがあった超過密の金岡中学校(現「金岡北中学校」)はもとより、小学校も保育所も、商業施設さえも、まるで人口増を見越さない無計画で無責任な開発が進められていました。
 住民がみんなでまちづくりを考え、これに参加するために、団地内で知り合った仲間たちと、1970年に地域新聞「こんにちは!」を創刊。こども文庫、共同保育、共同購入、スポーツ・サークル、図書館設置などの住民運動が、このミニコミ紙での情報発信をもとにして進められました。
2002年9月1日  長谷川俊英
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